ヨハネ​に​よる​福音​書 6:1-71

6  このあと,イエスはガリラヤつまりティベリアこうへった+  おおぜいひとがそのしょかっていった+。イエスがせき*おこなってびょうひとたちをやすのをたからだった+  イエスはやまのぼり,そこでたちとすわった。  さて,ユダヤじんまつりである+ちかかった。  イエスはげておおぜいひとがやってるのを,「このひとびとべるパンをどこでいましょうか」とフィリポ+った+  かれためすためにそうったのであり,どうするかはかんがえてあった。  フィリポはこたえた。「200デナリぶんのパンでもりません。一人ひとり一人ひとりにほんのすこしずつくばることもできないでしょう」。  1人ひとりでシモン・ペテロのきょうだいであるアンデレがった。  「ここにおおむぎのパン5つとちいさなさかな2ひきっているしょうねんがいます。でも,これほどおおぜいではなにになるでしょうか+」。 10  イエスは,「ひとびとすわらせなさい」とった。そのしょにはくさがたくさんえていて,ひとびとはそこにすわった。やく5000にんだんせいがいた+ 11  イエスはパンをり,かんしゃいのりをしてから,すわっているひとたちにくばった。ちいさなさかなについてもおなじようにし,ひとびときなだけべた。 12  ひとびとまんぷくになったとき,イエスはたちにった。「あまったかけらをあつめ,なににならないようにしなさい」。 13  たちがかけらをあつめると,12かごがいっぱいになった。もともと5つだったおおむぎのパンをべたひとたちがのこしたものだった。 14  ひとびとはイエスがおこなったせきて,「これこそ,ることになっていたげんしゃ+」といだした。 15  イエスは,ひとびとぶんおうにするためにらえにようとしているのをり,ただひとりで+ふたたやまっていった+ 16  ゆうがたになるころたちはみずうみりていった+ 17  そしてふねり,みずうみわたってカペルナウムにかった。もうくらくなっていたが,イエスはまだたちのところていなかった+ 18  また,つよかぜいていて,みずうみれだした+ 19  ところが,たちは5,6キロほどこいだとき,イエスがみずうみうえあるいてふねちかづいてくるのをた。そしておそろしくなった。 20  しかしイエスは,「わたしです。おそれることはありません!」とった+ 21  それでたちは,よろこんでイエスをふねむかれた。ふねはすぐに,こうとしていたいた+ 22  つぎみずうみこうがわにいたぐんしゅうは,そこにふねがないことにいた。たちだけがそこにあったぶねっていて,イエスはいっしょってはいかなかったのである。 23  すると,しゅイエスがかんしゃいのりをしてからひとびとにパンをべさせたしょちかくに,ティベリアからすうそうのふねいた。 24  ぐんしゅうはイエスもたちもそこにいないのをて,それらのふねり,イエスをさがしにカペルナウムにった。 25  ひとびとみずうみわたってイエスをつけると,「ラビ+,いつここにたのですか」とった。 26  イエスはこたえた。「はっきりっておきますが,みなさんがわたしさがしているのは,せきたからではなく,パンをべてまんぞくしたからです+ 27  くさってしまうしょくもつのためではなく+,なくならないでえいえんいのちをもたらすしょくもつのためにはたらきなさい+ひとがそれをあたえます。ちちすなわちかみかれみとめていることをしめした*からです+」。 28  ひとびとった。「かみもとめることをおこなうにはなにをしなければなりませんか」。 29  イエスはこたえた。「かみもとめること,それはかみつかわしたひとしんこういだくことです+」。 30  ひとびとった。「わたしたちがあなたをしんじられるよう,あなたはしるしとしてどんなせきせてくれますか+。どんなことをするのですか。 31  わたしたちのこうでマナをべました+。『かみてんからパンをあたえてべさせた+』といてあるとおりです」。 32  イエスはった。「はっきりっておきます。モーセはてんからのパンをあたえませんでした。しかし,わたしちちは,てんからのしんのパンをみなさんにあたえています。 33  てんからくだってきてじんるいいのちあたえるひとかみのパンだからです+」。 34  ひとびとった。「しゅよ,いつもそのパンをください」。 35  イエスはった。「わたしいのちのパンです。わたしのもとにひとまったえず,わたししんこういだひとけっしてのどかわきません+ 36  しかしわたしったように,みなさんはたしかにわたしたのにしんじません+ 37  ちちわたしたくしてくださるひとみなわたしのもとにます。そしてわたしぶんのもとにひとけっしてはらったりしません+ 38  わたしてんからくだってきたのは+ぶんのぞむことではなく,わたしつかわしたかたのぞむことをおこなうためだからです+ 39  わたしつかわしたかたのぞむこととは,わたしが,たくされたすべてのひと一人ひとりうしなうことなく+わりのふっかつさせる+ことです。 40  わたしちちのぞむのは,みとめてしんこういだひとみなえいえんいのちけることなのです+わたしはそのひとわりのふっかつさせます+」。 41  ユダヤじんたちは,「わたしてんからくだってきたパンだ+」とイエスがったことでまんくちにしはじめた。 42  こういだした。「これはヨセフのイエスではないか。わたしたちはかれちちおやははおやっている+いまになって,『わたしてんからくだってきた』とうのはどうしてか」。 43  それでイエスはった。「まんくちにするのはやめなさい。 44  わたしつかわしたちちせてくださらないかぎり,だれわたしのもとにることはできません+わたしはそのひとわりのふっかつさせます+ 45  げんしゃしょに,『かれらはみなエホバにおしえられる*+』といてあります。ちちからいてまなんだひとみなわたしのもとにます。 46  だれかがちちたというのではありません+かみところからひとだけがちちました+ 47  はっきりっておきますが,しんじるひとえいえんいのちけます+ 48  わたしいのちのパンです+ 49  たちはこうでマナをべましたが,それでもにました+ 50  しかし,てんからくだってくるパンをべるひとにません。 51  わたしてんからくだってきたいのちのパンです。このパンをべるひとえいえんきます。そして,わたしあたえるパンとはわたしにくであり,じんるい*きるためのものです+」。 52  そこでユダヤじんたちは,「どうしてこのひとぶんにくあたえてべさせることができるのか」といをはじめた。 53  イエスはった。「はっきりっておきますが,ひとにくべず,そのまないかぎり,ぶんうちいのちてません+ 54  わたしにくべ,わたしひとえいえんいのちけ,わたしはそのひとわりのふっかつさせます+ 55  わたしにくしんしょくもつわたししんものです。 56  わたしにくべ,わたしひとは,ずっとわたしむすいており,わたしもそのひとむすいています+ 57  きているちちわたしつかわし,わたしちちによってきているのとおなじように,わたしべるひとわたしによってきます+ 58  これがてんからくだってきたパンです。たちがべはしてもんだのとはちがい,このパンをべるひとえいえんきます+」。 59  イエスはこうしたことを,カペルナウムのかいどうおしえていたときかたった。 60  イエスののうちおおくのひとが,これをいたときに,「このはなしはひどい。だれいていられるだろうか」とった。 61  しかしイエスは,たちがこのことでまんくちにしているのをって,こうった。「このことではんかんいだいている*のですか。 62  では,ひともといたところのぼっていくのをたら,どうでしょうか+ 63  いのちあたえるのはせいなるちからです+にんげんりょくなんやくにもちません。わたしがあなたたちにはなしたことせいなるちからによるものであり,いのちあたえます+ 64  しかし,あなたたちのなかにはしんじないひともいます」。イエスははじめから,しんじないひとたちとぶんうらひとっていたのである+ 65  さらにこうった。「それでわたしは,ちちゆるされたのでないかぎだれわたしのもとにることはできない,とあなたたちにったのです+」。 66  このために,のうちおおくのひとぜんことがらもどっていき+,もはやイエスとともあゆもうとはしなかった。 67  それでイエスは12にんった。「あなたたちもっていきたいですか」。 68  シモン・ペテロがこたえた。「しゅよ,わたしたちはだれところけばよいのでしょう+。あなたはえいえんいのちことっています+ 69  わたしたちは,あなたがかみせいなるかたであることをしんじ,るようになりました+」。 70  イエスはこたえた。「わたしがあなたたち12にんえらんだのではありませんか+。しかし,あなたたちの1人ひとりちゅうしょうするひとです+」。 71  イエスは,シモン・イスカリオテのユダについてはなしていたのである。このひとは12にん1人ひとりでありながらイエスをうらろうとしていた+

脚注

直訳,「しるし」。
直訳,「この者に証印を押した」。
または,「教えられた者となる」。
直訳,「世」。
または,「気分を害している」。

注釈

ガリラヤ湖: イスラエル北部にある内陸の淡水湖。(「湖」と訳されるギリシャ語には「海」という意味もある。)キネレト湖(民 34:11),ゲネサレ湖(ルカ 5:1),ティベリア湖(ヨハ 6:1)とも呼ばれている。海面より平均210メートル低く,南北21キロ,幅12キロで,最深部は約48メートル。付録A7,地図3B,「ガリラヤ湖で行ったこと」を参照。

ガリラヤ湖つまりティベリア湖: ガリラヤ湖はティベリア湖と呼ばれることもあった。この呼び名は,ローマ皇帝ティベリウス・カエサルにちなんで名付けられたガリラヤ湖西岸の町の名前から来ている。(ヨハ 6:23)ティベリア湖という名前はこことヨハ 21:1に出ている。マタ 4:18の注釈を参照。

過ぎ越しの祭り: イエスは西暦29年秋のバプテスマの後,伝道活動を開始した。それで,ここで述べられている宣教初期の過ぎ越しは西暦30年春に行われたものだったに違いない。(ルカ 3:1の注釈付録A7を参照。)4つの福音書を比較することで,イエスの地上での宣教期間中に過ぎ越しが4回あったことが示され,宣教が3年半続いたという結論になる。マタイ,マルコ,ルカの福音書(しばしば共観福音書と呼ばれる)は,イエスが死んだ時の4回目の過ぎ越し以外は述べていない。ヨハネは3つの過ぎ越しについてはっきり述べている。(ヨハ 2:13; 6:4; 11:55)そして,もう1つはヨハ 5:1の「ユダヤ人の祭り」という表現で言及されていると思われる。これは,イエスの生涯をより詳しく理解するために福音書の記述を比較することの価値をよく示す1例。ヨハ 5:1; 6:4; 11:55の注釈を参照。

ユダヤ人の祭り: ヨハネはどの祭りのことかを明確にしていないが,西暦31年の過ぎ越しと結論できる十分な理由がある。ヨハネの記述は一般に出来事の起きた順に書かれている。文脈からすると,この祭りはイエスが「収穫までまだ4カ月ある」と言った少し後のこと。(ヨハ 4:35)この収穫の季節,特に大麦の収穫は大体,過ぎ越しの時(ニサン14日)に始まった。それで,イエスがこう述べたのは,過ぎ越しの4カ月ほど前,つまりキスレウの月(11月から12月にかけて)のころだったようだ。献納の祭りとプリムの祭りの2つもキスレウとニサンの間に行われた。しかし,イスラエル人はこの祭りのためにエルサレムに上っていくことは求められていなかった。それでこの文脈で,イエスがイスラエルに対する神の律法に従ってエルサレムで参加する必要があった「ユダヤ人の祭り」としては過ぎ越しが最も可能性が高いと思われる。(申 16:16)確かに,ヨハネは次の過ぎ越しのことを述べる前にほんのわずかの出来事しか記していないが(ヨハ 6:4),付録A7の表からすると,イエスの初期の宣教に関するヨハネの記述はかなり省略されており,他の3人の福音書筆者がすでに書いた多くの出来事については述べていない。実のところ,他の3人の福音書筆者が記したイエスの数多くの活動によって,ヨハ 2:13ヨハ 6:4にある過ぎ越しの間にもう1回,年ごとの過ぎ越しが確かにあったという結論は信頼できるものとなっている。付録A7ヨハ 2:13の注釈を参照。

過ぎ越し: 西暦33年の過ぎ越しで,ヨハネの福音書で述べられる4回目の過ぎ越しと思われる。ヨハ 2:13; 5:1; 6:4の注釈を参照。

過ぎ越し: 西暦32年の過ぎ越しで,イエスの地上での宣教期間中にあった3回目の過ぎ越しを指すと思われる。ヨハ 2:13; 5:1; 11:55の注釈付録A7を参照。

この人々が食べるパンをどこで買いましょうか: 4福音書全てに記録されているイエスの奇跡はこれだけ。(マタ 14:15-21。マル 6:35-44。ルカ 9:10-17。ヨハ 6:1-13

デナリ: 用語集付録B14参照。

女性や子供もいた: この奇跡に関する記述で,マタイだけが女性や子供のことも述べている。この奇跡によって食事をした人は優に1万5000人を超えた可能性がある。

人々を座らせなさい: または,「人々を横にならせなさい」。ここの「人々」はギリシャ語アントローポスの訳で,その語はたいてい男性と女性の両方を含む。この節ではギリシャ語アネールの別形も使われており,マタ 14:21から見て,この文脈で成人男性だけを指す。マタ 14:21の注釈を参照。

人々はそこに座った。約5000人の男性がいた: この奇跡に関する記述で,マタイだけが「女性や子供もいた」と述べている。(マタ 14:21)この奇跡によって食事をした人は優に1万5000人を超えた可能性がある。

世: ギリシャ語コスモスはここで,人類という世を指す。この文脈で,世に来るという表現は,イエスが人間として誕生することではなく,バプテスマを受けて人々の中に来ることをおもに指すようだ。イエスはバプテスマの後,与えられた務めを遂行し,人類という世に光を掲げる者となった。(ヨハ 3:17,19; 6:14; 9:39; 10:36; 11:27; 12:46,ヨ一 4:9と比較。)

預言者: 西暦1世紀,多くのユダヤ人は,申 18:15,18の述べるモーセのような預言者がメシアだと思っていた。この文脈で,世に来るという表現は,待望されたメシアの出現を指すようだ。この節の出来事を述べているのはヨハネだけ。ヨハ 1:9の注釈を参照。

自分を王にするために: この出来事を記しているのはヨハネだけ。イエスは,国の政治に関わることをきっぱり拒んだ。神の定められた時に,神の方法でのみ王権を受けることを望んだ。後に,自分の弟子たちも同様の態度を取るべきことを強く述べた。(ヨハ 15:19; 17:14,16; 18:36

ガリラヤ湖: イスラエル北部にある内陸の淡水湖。(「湖」と訳されるギリシャ語には「海」という意味もある。)キネレト湖(民 34:11),ゲネサレ湖(ルカ 5:1),ティベリア湖(ヨハ 6:1)とも呼ばれている。海面より平均210メートル低く,南北21キロ,幅12キロで,最深部は約48メートル。付録A7,地図3B,「ガリラヤ湖で行ったこと」を参照。

ガリラヤ湖つまりティベリア湖: ガリラヤ湖はティベリア湖と呼ばれることもあった。この呼び名は,ローマ皇帝ティベリウス・カエサルにちなんで名付けられたガリラヤ湖西岸の町の名前から来ている。(ヨハ 6:23)ティベリア湖という名前はこことヨハ 21:1に出ている。マタ 4:18の注釈を参照。

湖: ガリラヤ湖のこと。マタ 4:18,ヨハ 6:1の注釈を参照。

ガリラヤ湖: イスラエル北部にある内陸の淡水湖。(「湖」と訳されるギリシャ語には「海」という意味もある。)キネレト湖(民 34:11),ゲネサレ湖(ルカ 5:1),ティベリア湖(ヨハ 6:1)とも呼ばれている。海面より平均210メートル低く,南北21キロ,幅12キロで,最深部は約48メートル。付録A7,地図3B,「ガリラヤ湖で行ったこと」を参照。

5,6キロほど: 直訳,「25ないし30スタディオンほど」。ギリシャ語スタディオンは185メートル,もしくは1ローマ・マイルの8分の1に相当する長さの単位。ガリラヤ湖は幅12キロほどなので,弟子たちは湖の中ほどまで来ていたかもしれない。(マル 6:47マタ 4:18の注釈付録A7B14を参照。

ティベリア: ガリラヤ湖の西岸の町で,カペルナウムの南約15キロ,古代に有名だった幾つかの温泉のすぐ北。ヘロデ・アンテパスによって新しい都また住まいとして西暦18年から26年ごろに建設された。ヘロデは当時のローマ皇帝ティベリウス・カエサルをたたえて命名した。今でもティベリア(ヘブライ語テベルヤ)と呼ばれている。地域で一番大きな町だったが,聖書に出ているのはここだけ。異国の影響が強かったためと思われるが,イエスがティベリアを訪れたという記録はない。(マタ 10:5-7と比較。)ヨセフスによれば,ティベリアの町は墓地のあった所に建てられたので,多くのユダヤ人はそこに移住するのを嫌がった。(民 19:11-14)西暦2世紀のユダヤ人の反抗の後,ティベリアは清められたと宣言され,ユダヤ教研究の中心地になり,サンヘドリンが置かれた。ミシュナとパレスチナ(エルサレム)タルムードがここで編さんされ,後にヘブライ語聖書の翻訳に使われたマソラ本文も編さんされた。付録B10参照。

腐ってしまう食物……なくならないで永遠の命をもたらす食物: イエスは,もっぱら物質的な利益のためにイエスや弟子たちの所に来る人たちがいると分かっていた。人々は文字通りの食物によって日々生きているが,神の言葉に基づく「食物」によって永遠に生きることができる。イエスは群衆に,「なくならないで永遠の命をもたらす食物」のために働きなさいと言った。これは,神との関係を強めるために努力し,学んだ事柄に信仰を抱くように,ということ。(マタ 4:4; 5:3。ヨハ 6:28-39

私たちの父祖は……マナを食べました: ユダヤ人は,文字通りの食物を与えてくれるメシアである王を望んでいた。その根拠として,神が父祖たちにシナイの荒野でマナを与えたことをイエスに思い起こさせた。詩 78:24を引用し,奇跡的に供給されたマナを天からパン(または,「穀物」)と呼んだ。人々はイエスに「しるし」を求めた時(ヨハ 6:30),イエスが前日に行った奇跡のことを念頭に置いていたのかもしれない。イエスは,大麦のパン5つと小さな魚2匹を何倍にも増やして何千人もの人に十分な食事をさせた。(ヨハ 6:9-12

世は彼を通して存在するようになった: ここでギリシャ語コスモス(「世」)は人類という世を指す。そのことは,節の後半に,世の人々は彼を知らなかったとあることから明らか。このギリシャ語は世俗の文書で宇宙や創造物全般を指して使われることもあった。使徒パウロもギリシャ人に話した時,その意味で使ったのかもしれない。(使徒 17:24)とはいえ,ギリシャ語聖書ではたいてい,人類という世あるいはその一部を指す。確かにイエスは天地とそこにある全てのものを含め,全てのものを生み出すことに携わったが,この節は人類を存在させる上でのイエスの役割に注意を向けている。(創 1:26。ヨハ 1:3。コロ 1:15-17

人類: 直訳,「世」。ギリシャ語聖書で,ギリシャ語コスモスはたいてい,人類という世あるいはその一部を指す。(ヨハ 1:10の注釈を参照。)ヨハ 1:29で,神の子羊であるイエスは人類の罪を取り去ると言われている。ヨハ 6:33で,イエスは神のパン,人類にと祝福をもたらすエホバの経路とされている。

命のパン: この表現は聖書の原文に2回だけ出ている。(ヨハ 6:35,48)ここの文脈で,は「永遠の命」を指している。(ヨハ 6:40,47,54)この会話の中で,イエスは自分のことを「天からの真のパン」(ヨハ 6:32),「神のパン」(ヨハ 6:33),「命のパン」(ヨハ 6:51)と言っている。そして,イスラエル人が荒野でマナを与えられたが(ネヘ 9:20),神の供給したこの食物で永遠に生きることはできなかったと指摘している。(ヨハ 6:49)一方,キリストの忠実な弟子たちは天からのマナである「命のパン」を手に入れることができ(ヨハ 6:48-51,58),それによって永遠に生きられる。犠牲として捧げられたイエスの肉と血にある命を救う力に信仰を抱くことにより,「このパンを食べる」。

彼が生き返ることは知っています: マルタは,イエスが,終わりの日に起きる将来の復活のことを言っているのだと思った。(ヨハ 6:39の注釈を参照。)その教えに対するマルタの信仰は際立っていた。それは聖書にはっきり述べられている教えだったが,当時の宗教指導者の中でサドカイ派と呼ばれる人たちは復活があることを否定していた。(ダニ 12:13。マル 12:18)一方,パリサイ派の人たちは魂の不滅を信じていた。しかしマルタは,イエスが復活の希望を教えたことや,ラザロほど時間がたってからではなかったが,現に復活を行ったことを知っていた。

終わりの日に復活させる: イエスは,終わりの日に人々を復活させると4回述べている。(ヨハ 6:40,44,54ヨハ 11:24で,マルタも「終わりの日の復活」について述べている。(ダニ 12:13と比較。ヨハ 11:24の注釈を参照。)ヨハ 12:48で,この「終わりの日」は裁きが行われる時と結び付けられている。それは,復活する人全てを含め人類をキリストが裁く千年統治のことと思われる。(啓 20:4-6

永遠の命: この場面で,「永遠の命」という表現をイエスが4回(ヨハ 6:27,40,47,54),弟子の1人が1回(ヨハ 6:68)使っている。「永遠の命」という表現はヨハネの福音書に17回あるのに対し,他の3つの福音書には合わせて8回。

あらゆる人: イエスは,国籍,人種,経済状態に関わりなく,あらゆる背景の人を自分に引き寄せると述べている。(使徒 10:34,35。啓 7:9,10ヨハ 6:44の注釈を参照。)この時,神殿で崇拝していた「ギリシャ人たち」がイエスに会いたがったことは注目に値する。(ヨハ 12:20の注釈を参照。)多くの翻訳者は,ギリシャ語パース(「皆」,「全ての[人]」)を,最終的に全ての人間がイエスに引き寄せられることを指すように訳している。しかし,この見方は聖書の他の部分と一致しない。(詩 145:20。マタ 7:13。ルカ 2:34。テサ二 1:9)ギリシャ語は字義的には「全て」,「皆」を意味するが(ロマ 5:12),マタ 5:11使徒 10:12は,その語には「全ての種類の」や「あらゆる」という意味もあることをはっきり示している。多くの翻訳は,これらの聖句で「あらゆる」,「あらゆる種類の」といった訳を使っている。(ヨハ 1:7。テモ一 2:4

引き寄せて: 「引き寄せる」に当たるギリシャ語動詞は,漁網を手繰り寄せることに関して使われるが(ヨハ 21:6,11),神が人の意志を無視して引っ張るということではない。この動詞は「引き付ける」ことも意味する。イエスの言葉はエレ 31:3に言及しているのかもしれない。その聖句でエホバはご自分の古代の民に,「揺るぎない愛をもってあなたを引き寄せた」と言った。(セプトゥアギンタ訳はここで同じギリシャ語動詞を使っている。)ヨハ 12:32注釈を参照)によれば,イエスも同じようにあらゆる人を自分に引き寄せる。聖書は,エホバが人間に自由意志を与えたことを示している。エホバに仕えるかどうかは誰もが選択できる。(申 30:19,20)神は,正しい態度を持つ人をご自分に優しく引き寄せる。(詩 11:5。格 21:2。使徒 13:48)エホバは,聖書の音信によって,また聖なる力によってそうする。ヨハ 6:45に引用されているイザ 54:13の預言は,父に引き寄せられた人たちに当てはまる。(ヨハ 6:65と比較。)

エホバ: ここで引用されているイザ 54:13では,元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。ヨハネの福音書の現存するギリシャ語写本はここでテオスという語を使っている。(セプトゥアギンタ訳の写本のイザ 54:13で使われている語を採用したのだろう。)そのために,ほとんどの翻訳は「神」としている。この引用のヘブライ語聖書の背景を考慮して,ここの本文では神の名前が使われている。付録C参照。

自分が命を与える力を持っている: 直訳,「自分の内に命を持っている」。イエスが「命を与える力」を持っているのは,もともとエホバだけが持っていた力を父から与えられたから。この力には,神の前での良い立場を得て命を得る機会を人間に与える権威が含まれる。死者を復活させて命を与える能力も含まれるだろう。イエスは,ここに記されている言葉を述べてから約1年後に,弟子たちが自分の内に命を持てることを示した。イエスが弟子たちに関して使った「自分の内に命を持」つという表現の意味については,ヨハ 6:53の注釈を参照。

自分の内に命を: ヨハ 5:26でイエスは,父が「命を与える力を」(直訳,「自分の内に命を」)持っているように自分も「命を与える力を」授けられた,と述べた。(ヨハ 5:26の注釈を参照。)その約1年後の今,イエスは弟子たちについて同じ表現を使っている。ここでイエスは,「自分の内に命を」持つとは「永遠の命」を得ることと同じだとしている。(ヨハ 6:54)この文脈で「自分の内に命を」という表現は,命を与える力を意味するのではなく,命の十分に満ちた状態を得る,簡単に言えば存分に生きることを指すようだ。天に行くよう選ばれたクリスチャンは,天での不滅の命に復活させられると,存分に生きられるようになる。地上で生きる希望を持つ忠実な人は,キリストの千年統治が終わった直後に最終的に試され,それを通過すると,存分に生きることができる。(コ一 15:52,53。啓 20:5,7-10

私の肉を食べ,私の血を飲む: 文脈からすると,肉を食べ,血を飲む人は,イエス・キリストに信仰を抱くことにより,比喩的な意味でそうする。(ヨハ 6:35,40)イエスがこの言葉を語ったのは西暦32年だったので,主の晩餐について述べていたわけではない。イエスが主の晩餐を制定するのは1年後だった。この言葉は,「ユダヤ人の祭りである過ぎ越し」の直前に語られた。(ヨハ 6:4)そのため聞いていた人たちは,間近に迫った祭りのことと,イスラエルのエジプト脱出の夜に命を救う子羊の血が非常に重要だったことを思い起こしたと思われる。(出 12:24-27)イエスは,弟子たちが永遠の命を得られるようにする上で,ご自身の血が同じように肝要な役割を果たすことを強調していた。

私と結び付いており: または,「私の内にあり」。この表現は,親しい交友,調和,一致を示している。

会堂: もしかすると,「公の集会」。ここで使われているギリシャ語名詞シュナゴーゲーは,字義的には「集めること」,「集会」という意味。ギリシャ語聖書のほとんどの出例において,ユダヤ人が聖書の朗読を聞き,教えを受け,伝道し,祈るために集まった建物や場所を指す。(用語集参照。)この文脈でこの語は,誰もが参加できるいろいろな集まりを指してもっと広い意味で使われている可能性もあるが,イエスがモーセの律法下にあるユダヤ人に話をした「会堂」を指していると思われる。

あなたに罪を犯させている: 直訳,「あなたをつまずかせる」。または,「信仰の妨げとなっている」。ギリシャ語聖書で,ギリシャ語スカンダリゾーは比喩的な意味で使われていて,罪に陥ることや人を罪に陥らせることが含まれる。この文脈では,「わなとなる」とも訳せる。この語が聖書で使われるとき,その罪とは,道徳に関する神の律法を破ること,信仰を失うこと,偽りの教えを受け入れることを意味すると思われる。このギリシャ語は「腹を立てる」という意味でも使われる。マタ 13:57; 18:7の注釈を参照。

信仰の妨げ: 「信仰の妨げ」と訳されているギリシャ語スカンダロンは,元々わなを指していたと考えられている。わなの中の餌の付いた棒のことだと考える人もいる。転じてこの語は,人をつまずかせたり倒れさせたりする障害物を指すようになった。比喩的な意味で,人を誤った歩み,道徳的な堕落,罪へと至らせる行動や状況を指す。この語と関係のある動詞スカンダリゾーはマタ 18:8,9で「信仰の妨げとなる」と訳されており,「わなとなる」,「罪を犯させる」とも訳せる。

このことで反感を抱いているのですか: 直訳,「これがあなたたちをつまずかせるのですか」。または,「このことで信仰を捨てるのですか」。「つまずかせる」と訳されるギリシャ語スカンダリゾーはギリシャ語聖書で比喩的な意味で使われ,多くの場合,罪に陥ることや人を罪に陥らせることを指す。文脈によって,道徳に関する神の律法を破ること,信仰を失うこと,偽りの教えを受け入れること,あるいは腹を立てることを意味すると思われる。マタ 5:29; 18:7の注釈を参照。

ということの意味: 直訳,「ということが何であるか」。ここでギリシャ語エスティン(字義的には「である」)は,「表す」,「意味する」ということ。マタ 26:26の注釈を参照。

表しています: ここでギリシャ語エスティン(字義的には「である」)は,「意味する」,「象徴する」,「表象する」,「表す」という意味。このような意味であることは使徒たちには明らかだった。この時,イエスの完全な体が彼らの目の前にあり,食べようとしていた無酵母パンもそこにあったから。それで,そのパンがイエスの文字通りの体であったはずがない。同じギリシャ語がマタ 12:7で使われていて,多くの聖書で「意味する」と訳されていることにも注目。

聖なる力: イエスはここで,神が聖なる力によって与える知恵と能力に比べると,人間の努力は何の役にも立たないと述べている。これは,書物,哲学,教えに見られる人間の知恵も能力も永遠の命には至らないということ。

人間の努力: 直訳,「肉」。この表現は,思考や業績を含め人間の限界に関連した事柄を広く指すようだ。人間の経験と知恵,書物と哲学と教え全てを合わせても,永遠の命を得るには何の役にも立たない。

聖なる力によるものであり,命を与えます: 「である」と訳されるギリシャ語(エスティン)は,ここで「意味する」ということかもしれない。それでこの部分は「聖なる力を意味し,命を意味する」とも訳せる。(マタ 12:7; 26:26の注釈を参照。)イエスは,自分の話した言葉は聖なる力に導かれていて,命を与えるものであることを示していたと思われる。

中傷する人です: または,「悪魔のようです」。ギリシャ語ディアボロスはほとんどの場合,悪魔に関して使われ,「中傷する者」を意味する。悪魔を指していない他の幾つかの場合,「中傷する」と訳されている。(テモ一 3:11。テモ二 3:3。テト 2:3)ギリシャ語で,悪魔について使われるとき,ほとんど全ての場合,定冠詞が付いている。(マタ 4:1の注釈と用語集の「定冠詞」を参照。)ここでは,悪い性質を育てたユダ・イスカリオテを指して使われている。ユダが悪い道を歩み始めたことをイエスがこの時点で見抜いていたと考えられる。その歩みのために,後にイエスを死なせる手駒としてサタンに利用された。(ヨハ 13:2,11

知っていた: イエスは周りの人の考えや態度を見分けることができたので,ユダが使徒として選ばれた時点で反逆的な態度を持っていなかったことは明らか。(マタ 9:4。マル 2:8。ヨハ 2:24,25)しかし後にユダが悪い態度を育て始めた時,イエスはそれを見抜き,裏切る者を特定できた。イエスはユダが裏切ると分かっていたが,その人の足も洗った。ヨハ 6:64,70の注釈を参照。

イエスは……自分を裏切る人を知っていた: イエスはユダ・イスカリオテのことを言っていた。イエスは12使徒を選ぶ前に,父に一晩中祈った。(ルカ 6:12-16)それでユダは当初,神に忠実だった。しかしイエスはヘブライ語聖書の預言から,自分が親しい仲間に裏切られることを知っていた。(詩 41:9; 109:8。ヨハ 13:18,19)心と考えを読めるイエスは,ユダが悪くなり始めた時,その変化を見抜いた。(マタ 9:4)神も予知力を用いて,イエスの信頼する友が裏切り者になることを知っていた。しかし,あたかも前もって定められていたかのようにユダが失敗することになっていたと考えるのは,神の性質や過去の物事の扱い方と調和しない。

初めから: この表現は,ユダが生まれた時や,イエスが一晩中祈って使徒を選んだ時を指すのではない。(ルカ 6:12-16)ユダが裏切る行動を取り始めた時を指し,イエスはすぐにそれに気付いた。(ヨハ 2:24,25。啓 1:1; 2:23ヨハ 6:70; 13:11の注釈を参照。)これはユダの行動が前もって考えられた計画的なもので,突然の心の変化によるものではなかったことも示している。ギリシャ語聖書で「初め」という語(ギリシャ語アルケー)の意味は相対的で,文脈によって決まる。例えば,ペ二 3:4で「始め」は,創造の始まりを指す。しかし,ほとんどの場合は限定的な意味で使われている。例えば,ペテロは「初めに私たちが受けたように」異国の人たちが聖なる力を受けたと述べている。(使徒 11:15)ペテロは,自分が生まれた時や招かれて使徒となった時のことを言っていたのではない。西暦33年のペンテコステの日,つまり聖なる力が特定の目的のために注がれた「初め」のことを言っていた。(使徒 2:1-4)「初め」という語の意味が文脈によって異なることを示す他の例は,マタ 19:8,ヘブ 3:14,ヨ一 2:7にある。

悪魔: 英語のデビル(Devil)は,「中傷する者」を意味するギリシャ語ディアボロスに由来。(ヨハ 6:70。テモ二 3:3)関連する動詞ディアバッローは「訴える」,「非難する」という意味で,ルカ 16:1で「訴えられ」と訳されている。

中傷する人です: または,「悪魔のようです」。ギリシャ語ディアボロスはほとんどの場合,悪魔に関して使われ,「中傷する者」を意味する。悪魔を指していない他の幾つかの場合,「中傷する」と訳されている。(テモ一 3:11。テモ二 3:3。テト 2:3)ギリシャ語で,悪魔について使われるとき,ほとんど全ての場合,定冠詞が付いている。(マタ 4:1の注釈と用語集の「定冠詞」を参照。)ここでは,悪い性質を育てたユダ・イスカリオテを指して使われている。ユダが悪い道を歩み始めたことをイエスがこの時点で見抜いていたと考えられる。その歩みのために,後にイエスを死なせる手駒としてサタンに利用された。(ヨハ 13:2,11

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籠

聖書では,幾つかの語がさまざまな種類の籠を指すのに使われている。例えば,イエスが奇跡的に約5000人の男性に食事をさせた後の余ったかけらを集めた12の籠について,小さめの編み籠を指すギリシャ語が使われている。一方,イエスが約4000人の男性に食事をさせた後の余ったかけらを入れた7つの籠については別のギリシャ語が使われている。(マル 8:8,9)こちらの語は大籠を指し,パウロがダマスカスの城壁の窓から地面に下ろされた時の籠にも使われている。(使徒 9:25